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DAHON K3

DAHON K3
2019年購入。14 inch,7.8kg,3速。

KHS F20-R451

KHS F20-R451
2015年、台北で購入。そのまま阿里山、塔塔加へ。

KHS F20-T3

KHS F20-T3
2012年、台北で購入、そのまま中部横貫公路越え。

Bianchi Lupo

Bianchi Lupo
イタリア製と思いきや台湾製。基本パーツはSHIMANO TIAGRA。クロモリです。

KHS F20-T2

KHS F20-T2
2009年、台北で購入、そのまま一周。けっこう走れます。2019年、退役。

mayfly 2

mayfly 2

MARIN Pine Mountain

MARIN Pine Mountain
1992年 米国製。SHIMANO DEORE DX は25年間ノートラブル。2017年、退役。
 
 

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 近場の廃線跡へ。何度も近くを走ってますが、知りませんでした。
 右へカーブするのが厚木基地引込線。厚木は空軍でなく、米海軍と海上自衛隊の基地なんですね。これも、知りませんでした。
 厚木基地への燃料輸送線として1998年まで現役だったようです。
 1957年(昭和32年)の地形図では、特殊鉄道の地図記号が延びています。
 基地内は建屋がなく、蓼川(たてかわ)が台地を削る地形が等高線と同じように読み取れます。
 次いで相模国分寺跡。
 元の海老名村役場 「海老名市温故館」。日曜日ですが開いていたので、お話うかがえました。国分寺跡は、畑になっていたのを、少しづつ海老名市が買い取った。相模国府の痕跡は不明で、文献から平塚、大磯にあったことが推測されるが、ここにあったことは言い切れないとのこと。尾根筋に古東海道があったようだ、等々。
 法隆寺式伽藍配置。基石も多く現存し、屋根瓦に加え七重塔の先端の相輪の一部も出土しています。
 相鉄本線とJR相模線を結ぶ相鉄貨物線。下は小田急、右端の複線が相鉄本線。
 戦時買収以前の 1928年(昭和3年)の地形図では、貨物線が相模鉄道だったことがわかります。
 54.42km。

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 二週間前の続きを西日暮里から。日本一周を終えた蔡くんと歩くことにします。
 武蔵野台地の縁を上り、谷中初音町。マイナーな街だと思いますが、中国人、台湾人が大勢歩いています。
 谷中霊園、徳川慶喜墓所。蔡くんが、城郭、武将に異常に詳しいことがわかりました。なお、家紋は中華圏には無いとのこと。
 "tokyobike gallery 谷中"
 レンタル(1000円/日)も、やってました。
 根津神社から蔡くんの親友が通う本郷赤門。
 水道橋、竹橋と歩き、北の丸科学技術館で開催されているハンドメイドバイシクル展。もちろん目当ては、マホガニーバイクの SANOMAGIC。
 オーストラリア人のガスさんと二度工房へお邪魔しています。佐野さん、台湾好きのようで、蔡くんとも盛り上がっています。
 値札(予定価格,220万円)ついていましたが、数年待ち。「値段倍にしても同じ台数売れますよ」との問いには、職人の気概として芸術品にはしたくないとのこと。
 最後は東京都庁。やっぱり、この誘致デザインがいいわ。
 展望台、中国語が飛び交っています。中国人一家の写真を、彼らのカメラで撮ってあげました。英語はほとんどダメですが、お礼を伝えようとする気持ちは感じました。日本好きになって帰国してほしいです。
 17.3km(歩き)

玉川学園凸凹地形

2016年1月16日土曜日

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 多摩武蔵野スリバチ学会のフィールドワーク 「玉川学園凸凹地形」 に参加しました。
 集合場所の小田急線玉川学園駅へは、田園都市線の支線にあたる「こどもの国線」のこどもの国駅から山越えで向かうことにします。
 長津田駅から単線で2駅の「こどもの国線」は、元は旧陸軍 田奈弾薬庫への引き込み線で、戦後1961年まで米軍が接収していました。昭和29年修正、昭和32年発行の1/25000地形図「原町田」の単線特殊鉄道の記号は、こどもの国駅の先まで延びています。住吉神社を挟むように分岐していることもわかります。
 「こどもの国線」は単線2両編成、遊園地のアトラクションではありません。こどもの国駅前からこどもの国入り口へ延びる道路は、路線跡でしょう。
 入り組んだ尾根が横浜市と町田市の境界線(都県境)になります。
 境界の細い道を挟んで双方から宅地開発され、ほぼ繋がっていますが、道一本で都民と県民に分かれています。
 3km歩き、谷底にある玉川学園駅到着。今日は16名でのフィールドワーク。先ずは 2014年に亡くなった赤瀬川原平(尾辻克彦)のニラハウス。「路上観察学会」の藤森照信による設計です。ニラは生えていませんでした。
 都県境の道には、東京の水道制水弁、横浜の汚水マンホールが並んでいます。
 玉川学園駅周辺は、雑木林だった入会地を昭和初期から徐々に宅地開発されたもので、元の地形そのままです。急傾斜地地もたくさんありますが、造成したわけでないので災害は少ないとのことです。ただ、住民の高齢化が進むと、身動きとれなくなるのでは。
 自転車はまったく見かけませんでした。
 歩いたルートを昭和29年修正の1/25000地形図に書くと、狭い谷戸田と畑地に出来ない山林だったことがわかります。
 町会事務所も傾斜地。駅へ行くのも階段。今日はスリバチづくしでした。
 10.3km(歩き)

千住、町屋、西日暮里

2016年1月15日金曜日

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 地図の旅愛好会のNさんと、巡検の下見で千住を探索。
 JR貨物隅田川駅。かつては、隅田川の水運と連絡し水扱積卸場が設けられていました。
 千住製絨所(せいじゅうしょ、絨は毛織物)跡から隅田川を渡り、東京都中央卸売市場足立市場で昼食。Nさんは、煮魚(580円)、私は張り込んでウニ、煮アワビ、タチウオ(1500円)。コスパ感では判定負けか。
 ここのすぐ北には「やっちゃ場」千住青物市場がありました。
 東京芸術センターの21F(天空劇場)からの都心方面。東京のビル群は圧巻、不気味でもある。
 下見を終え、町屋方面へ尾竹橋通りを歩くと、ゴミ箱の陰に橋の親柱が。
 ずっと標高2-3メートルの平坦路でしたが、西日暮里で20mあまりの台地へ。山手線は台地直下に沿っています。
 最後は千駄木まで歩き千代田線で帰宅。
 13.3km(歩き)

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 1936年に開設した日本最初のサーキットの痕跡を見に、ご近所ポタ。何度も、そばを走っていますが気に留めていませんでした。
 昨年(2015年)大田区で開かれた回顧展の写真だと、こんな感じ。
 昭和初めの1/10000地形図では、河川敷に楕円のサーキットが描かれています。土手の南には特殊鉄道(一軌)が東横電鉄から分岐していますが、これは多摩川の砂利採取用の専用軌道です。
 コース跡にはソイルマークが(違いますね)
 1936年は昭和11年。まだ民間に流れる資材の質も良かったのでしょうか、80年経っていますが、コンクリート製のスタンドは、今でも使えます。
 明治末の地形図まで遡ると、ここは川辺の微高地で青木根集落がありました。90軒ほどの家々が並んでいたそうですが、堤防の外側となるため一斉に移転しました。
 砂利採取用の専用軌道が延びている先は、多摩川の中洲。等々力競技場は、旧河床にあります。
 25.29km

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 好天が続いていましたが、今日は曇り。大鳴門橋も霞んでいます。
 大鳴門橋のたもとへは行かず、島田島へ。鳴門わかめの産地、ウチノ海は穏やかに見えますが・・、
 鳴門海峡側からの潮が、勢い良く流れ込んでいました。(0:21)

 旧鳴門スカイライン(徳島県道183号線)に面した廃墟「ホテルニュー鳴門」。連絡橋が出来たころは賑わっていたのでしょうか。
 一般道ではありえない線形の旧鳴門スカイラインを走り、小鳴門海峡から撫養川を渡り妙見山公園へ。
 ちなみに、1947年(昭和22年)3月15日: 板野郡撫養町、鳴門町、瀬戸町、里浦村の三町一村合併で鳴南市(めいなんし)が発足。
 同年5月15日:市名が住民に不評のため、鳴門市に改称。
 妙見山公園は、謎に満ちています。パラダイスなのか。
 財団法人鳴門ガレの森美術館=看板は空海美術館だった。林立する裸婦像、廃屋。
 旧鳥居記念博物館(模造天守)の改修工事は鳴門市が行っていましたが、鳴門市の公園一覧に妙見山公園はありません。
 昭和29年に鳴門市忠魂碑合祀建立協賛会によって建てられた忠魂碑。付帯設備を含め妙見山公園の広い範囲を占めているので、公有地だと憲法に抵触しそう。
 40.99km

LABELS


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