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DAHON K3

DAHON K3
2019年購入。14 inch,7.8kg,3速。

KHS F20-R451

KHS F20-R451
2015年、台北で購入。そのまま阿里山、塔塔加へ。

KHS F20-T3

KHS F20-T3
2012年、台北で購入、そのまま中部横貫公路越え。

Bianchi Lupo

Bianchi Lupo
イタリア製と思いきや台湾製。基本パーツはSHIMANO TIAGRA。クロモリです。

KHS F20-T2

KHS F20-T2
2009年、台北で購入、そのまま一周。けっこう走れます。2019年、退役。

mayfly 2

mayfly 2

MARIN Pine Mountain

MARIN Pine Mountain
1992年 米国製。SHIMANO DEORE DX は25年間ノートラブル。2017年、退役。
 
 

木沢~徳島

2017年12月28日木曜日

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 寒い。西向き斜面なので明るくなっても陽はさしません。しっかり朝食をとって、9:30に出発。
 帰路は山越えの林道で。ぐんぐん高度を増し、宿は眼下に。
 昭和初期の地形図では川沿いに道はありません。この道が昔のメインルート。
 那賀町木沢支所(元の木沢村役場)が見えてきます。
 国の天然記念物の露頭が「坂州不整合」と呼ばれ、旧木沢村に大字木頭があるのは、下記の理由。
 1889年、木頭村・坂洲村・当山村・出羽村・木頭名村・阿津江村の区域をもって坂州木頭村(さかしゅうきとうそん)が発足。坂州木頭村は、1943年に坂州村に改称。村役場は坂州。1955年、坂州村と沢谷村が合併して木沢村。一方、奥木頭村は1933年に木頭村へ改称。なので、旧木沢村に大字木頭がある。2005年、鷲敷町・相生町・上那賀町・木沢村・木頭村が合併して那賀町に。合成地名の木沢は無くなり旧木沢村木頭は那賀町木頭に、旧木頭村○○は那賀町木頭○○に。
 那賀川に沿ったR193,R195 を下っていきます。この辺の那賀川は蛇行がデフォルト。
 桜谷隧道(旧道)の長さは 79m ですが、この前後を川で下れば 6km以上あります。
 もみじ谷温泉で、鹿肉ダムカレーと迷った末、あめご天丼(1150円)を食べ徳島へ。氷結に備え、SPDペダルにトレッキングシューズだったので、妙な疲労感が残りました。
 84.3km。

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 11月に四季美谷温泉へ行った帰りに立ち寄った「杉の子」に泊まりで行くことにします。八重原峠は氷結してそうなので、SPDペダルに街歩きシューズで向かいます。
 2013年に続き、 福川のよろずやのおばあさんのオーラルストーリー
(備忘)
①90歳になった。終戦の時は18歳、小松島の紡績工場へ動員されていた。竹やりの練習をした。「つけっ、つけっ」
②福川でも、上空を飛ぶB29を見た。灯火管制もあった。お母さんが、小松島にいる私の無事を拝んでもらいに行った帰り、溝に落ちて右手をけがした。
③大八車に着物を積んで、山奥の蔵に運んだ。今思うたらおかしいけど、ほんときは必死やった。
④肺病でようけ死んだ。ここらで、3人も5人も死んだ。
⑤小松島へ行くときは、トラックの荷台の材木の上に乗っていった。帰る時は、バスに乗ったら、もういっぱい。車掌さんが押して押して。終戦の時は、小松島。玉音放送は、聞いてなさそう。
⑥聞いた話では、大昔は50くらいになると、そこの(指さして)○川との境に姥捨て山があって、子が背負って連れていった。ものが食べれんように、歯ぁ切って連れていった。無殺生やったんやな。
 きつかった北西風も山間では弱まり八重地の上り口までは順調。
 標高800mを越えると、山の陰には雪が残る。乗ったり押したり。午後3時前でも、日没間近の雰囲気。
 峠(970m)のトンネルを抜けると西斜面に雪はなく、乗って下れました。恐れていた、押して下って日没は回避。
 明るいうちに宿に着きました。
 宿は築150年の古民家を改修したもの。初めて1年半、日本人は口コミ、今年6組来た外国人は Airbnb が多いとのこと。
 夕食は柚子酢でしめた寿司、椀は蕎麦ごめ、小鉢は隼人瓜。客は私だけなのに、土間の台所で丁寧に作ってくれました。風呂は水戸黄門風。
 夜は関東出身の宿主と、浄瑠璃、地名、町おこしの話など。
 55.2km。

 スマホアプリ「こちずぶらり」に徳島市街全圖(1936年)が加わったので、ママチャリでぶらり。
 住宅地の唐突に現れる鹽竈神社。昭和11年では、水田と塩田の境目でした。
 製塩の神様、鹽竈神社。塩田に向かって建っています。
 旧塩田側の方か高い。堰堤部分だけでなく、面域が高いのは謎。
 塩田と水田を分ける水路が新町川にそそぐ場所。
 対岸も塩田でした。
 ここだけ開渠。年季の入った石油タンク、さすがに、戦前のものではないでしょう。
 かちどき橋ができる前。
 中洲魚市場は、小規模になりましたが健在です。大阪航路の共同汽船船着場は、鉄橋ができて中洲波止場から富田港へ移りました。
 県庁(左奥)の当時の建屋(設計:佐藤利器)は、移設して文書館に。昭和4年建築の三河病院は健在。三河家住宅として国の重文に指定されました。ここは公開してほしい。
 飲み屋街の栄町。
 職業由来の地名が多く残っていました。裏原宿ならぬ裏秋田町も。
 元の水路に向かって、店が並んでいます。
 地元の人に聞くと、戦後も長く水路だった。各戸の玄関に私橋を渡していたそうです。
 水路跡を辿っていくと元の遊郭。栄町と舟で行き来できたのかも。
 ママチャリ 5km。

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 今日は、境界協会のフィールドワーク。自転車で行くつもりが出遅れて電車になってしまいました。13:00 池尻大橋駅集合。40名余りでスタート。歩き出してすぐに世田谷区と目黒区の区境。
 すぐ、目黒川の暗渠。今は、暗渠の上に、水を流しています。昭和30年ごろには河川改修されて直線に、その後大橋より上流は暗渠になりました。
 すぐ、上目黒氷川神社の目黒富士。都内に35ヶ所あると言う富士塚のひとつ。7月1日には、山開きの例祭が行なわれています。
 下山すると、すぐ日本地図センター。富士山遠望の第一人者、田代博さんの講話。地図センターで行なわれている「地図ふぇす」の特別セッションを行なっていただきました。
 地図センターがあるのは、暗渠化された空川のほとり。空川沿いに遠江橋(とうとうみばし)へ。深い谷には優美な階段が。空川を詰めると松見坂。仙川へ続く古道 "滝坂道" が通っていた旧遠江橋(明治32年竣工)の親柱は石橋供養塔になっています。
 新旧山手通りの分岐手前から折り返し、三田用水に沿った目黒区と渋谷区の区境を南下します。
 西郷山公園から槇文彦の代表作ヒルサイドテラス(朝倉家が発注者)を経て、国の重文「旧朝倉家住宅」。
 紅葉、健在です。
 朝倉家は、相続税の為にここを売却。残った土地にヒルサイドテラスを作りました。
 「旧朝倉家住宅」の裏手から猿楽塚。猿楽橋を渡り渋谷川。最後は金王八幡宮で解散。盛り沢山、充実したフールドワークでした。
(おまけ1) 工事が続く渋谷駅。見た記憶があると思ったら、マルセイユのユニテ・ダビタシオンでした。
(おまけ2) 今日のルートを米陸軍作成の1/12500(1946年)にトレースしたもの。手間がかかった割には、成果は金王八幡宮が、KINŌ と記されていることくらいか。
 歩き 7.0km。

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 まず、スリバチつながりで千葉・地図ラーの会主催の「街歩き写真家展」。総武線浅草橋駅下車、落ち着いた問屋街です。会場は"馬喰町FACTORY"、平日午後ですが、賑わっていました。主催者等々みなさん面識があるのは、スリバチの間口の広さを物語っています。詰めていた千葉スリバチ学会の稲垣会長に、夜景撮影のコツを教えてもらいました。雑談後、総武快速の馬喰町駅から蘇我駅へ。
 向かったのは E-1 サッカー選手権、なでしこ vs 中国の行なわれるフクダ電子アリーナ。2014年、ホーチミン市でアジア選手権を観戦した Wさんと久しぶりの "なでしこ" です。
 元は川崎製鉄千葉製鉄所。航空写真を比べると、製鉄所の広さがとんでもないことがわかります。フクダ電子は命名権を買った東京の会社です。
 唯一の得点となった田中美南のゴール。知らない人が増えた"なでしこ"、3年前は澤さんも宮間さんもいました。
 決定的瞬間が撮れたと思いましたが、ファインセーブのボールが隠れ残念な結果に。
 コツを教えてもらった夜景撮影、効果あったようです。

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