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ブラツバキ花街系は2回目の参加。前回はカフェー建築の残る、吉原、玉の井、鳩の街(2018/2/12) 今回は、共に「遊園地」と称された "亀戸"天神裏と"洲崎"パラダイス を訪ねました。 集合場所の錦糸町駅へ行く前に両国駅で下車。1970年ごろまでは、房総方面へのターミナル、貨物駅としての役割を持っていました。 |
跡地は、今日千秋楽の両国国技館や江戸東京博物館。 |
両国で降りた目的は、妹島和世設計の「すみだ北斎美術館」 外観だけ。思っていたより小ぶり。 |
ブラツバキ Vol.6 の参加者は40名あまり。関東大震災の復興事業で整備された錦糸公園(元の兵器支厰倉庫)から天神裏の私娼街跡を抜け、天祖神社(亀戸)へ。 |
関東大震災の翌月(1923.10)に発行された「最新模範東京市全図 大正12年9月1日 大震大火 (焼失) 地域図」では、東京市本所区と葛飾郡の境界がそのまま延焼境界。この時点で既に遊園地の表記がある天神裏。被災した浅草十二階から業社が移転し更に発展したようです。 |
玉垣には、殷賑を極めた「遊園地」の文字がダブルで。今とは遊園地の意味合いが異なります。 |
天祖神社の焼却炉は神明造り。 |
天神裏の天神は学問の神様、亀戸天満宮。正式には亀戸天神社。 |
亀戸香取神社には、亀戸三業組合や亀戸警察署の奉献碑。さすがに亀戸警察署は戦前の皇紀二千六百年記念ですが。 |
後半は、都バスで亀戸駅から江東運転免許試験場前へ。以前、場所が特定できなくなっていると読んだ記憶のある洲崎球場、判明したようです。「量水塔」は、どんな機能があったのか不明。 |
1887年(明治20年)の帝国大学校舎の新築に伴い、風紀上の観点から根津遊廓が移転した洲崎弁天町。学問の神様と違い、生身の人間は離さないといけないようです。 現在は、東陽町1丁目。洲崎パラダイスのよすが(縁)は、供養碑と電柱番札くらいか。 |
古い埋立地である洲崎と新しい埋立地。塀を上ると、ほぼ地面。洲崎の方が1m以上低いのは、パラダイスのよすが(因)か? |
最後は、波除碑と几号水準点のある洲崎神社。海老名香葉子と実家「竿忠」の玉垣がありました。 |
歩き 10.4km。 |
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境界協会の「千葉県市川vs浦安+都県境の妙見島」 に参加しました。参加者は45名あまり。東西線 南行徳駅からFW開始。先ずは、市川市と浦安市の市境。 |
行徳村と浦安村だったころ。澪に続く小川が境界でした。住居表示が違うのは当たり前ですが、通りの名称も違います。道路は千葉県道5号線ですが、市川側は「新浜通り」浦安側は「大三角線」、不仲なのでしょうか。 |
浦安側の広い通りも、市境で途切れています。 |
1/25000「浦安」1999年発行では繋がっている道。浦安側が拡幅した際に、市川側が接続を拒否したのでしょうか? |
両市の仲を象徴するような荒んだ境界。 |
川跡(おそらく暗渠)のようです。川沿いが畑です。 |
不仲確実な市川市と浦安市。マンホールも入れ乱れてのバトルロイヤル。 |
いよいよ妙見島。東西線から見た船首(下流側)、旧江戸川の中洲です。 |
千葉県側から見た船尾(上流側) |
ゆっくり進んでいると言われる妙見島。明治の迅速測図より50mくらい下流へ。・・実際は、測量精度や測地系の違いかも。 |
浦安橋で東京都に入り、途中で橋を降りて妙見島入り。東京23区唯一の自然島と言われています。工場だらけですが、千葉氏の守護神である妙見菩薩を祀る妙見神社があります。明治中期までは千葉県でした。 |
再度浦安橋を渡り千葉県へ戻ります。 |
境川西水門から浦安町役場跡を経て清瀧(せいりゅう)神社へ。 |
境川西水門と境川。水門脇に明治始めのお抱え外国人、リンド(オランダ)の記念碑があります。 |
本殿の意匠が際立つ清瀧神社。富士塚は大沢崩れあり。境内にリンドが設けた近代水準測量の出発点「堀江水準標石」があります。 |
最後は、浦安駅まで歩き解散。7.5km。 |
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「古道から見る歴史講座」の野外実習2回目。今日は梶が谷から宮前平。大山街道は原則尾根道。谷戸は湿地帯だったので、丘陵の裾を巻いていました。 |
(A) 谷底にある梶が谷駅。 |
1/20000 「溝口」明治39年測図、42年製版。梶が谷駅は谷戸の合流点で、湿地(溜め池?)でした。 |
(B) 末長の庚申塔。右:大山道、左:やうこうじ道(影向寺) 向きが違っているので移動されています。 |
(C) 宮崎大塚(馬絹大塚)6世紀の方墳説がありますが未調査。民有地ですが供養塔のある山頂へ入れます。ここが、王禅寺道の起点。
2016/9 の神奈川スリバチ学会「古墳×貨物駅、川崎市宮前区・高津区を歩く」と、ここだけ重複。 |
(D) 谷戸の合流点。大山街道は民有地になっているので尾根越えで進みます。 |
(E) 東急ドエルで道が消失している箇所。 |
高札場のあった宮崎第2公園から南西へ200mは、東急ドエル宮崎台(1973年竣工)の敷地内になっています。 |
この場所を大山街道が通っていました。 |
土橋の八幡坂。湧水が赤土に混じる難所でした。ここも元の街道は消失し迂回する道となっています。 |
(F) 八幡坂を下ると八幡神社。丘陵の裾の鳥居前が大山街道。 |
宮前平駅で解散。(G) 引き続き大山街道を鷺沼へ歩きました。 |
1/20000 「荏田」明治39年測図、42年製版。"高山" は地形図に表記されている鷺沼辺りで唯一の地名。バス停の名前にだけ残っています。 |
今は、人が住むようになりました。 |
歩き 4.8 km (解散後の鷺沼までを含む) |
1/14に聴講した法政大学デザイン工学部建築学科の東京発掘プロジェクトの研究発表は建築より土木寄りでした。建築重視を悔い改め、記憶に残る土木画像を10件選んでみました。 |
◆宇津谷隧道 <2010/4/3> 旧東海道の蔦の細道。明治から平成まで4本のトンネルが並ぶ。1876年(明治9年)開通の「明治トンネル」も現役ですが、1930年(昭和5年)開通の旧国道1号線(静岡県道208号線)は優美な断面を持っています。 |
◆豊稔池堰堤 <2010/7/27> 香川県観音寺市。1930年(昭和5年)に完成した豊稔池堰堤は石積みの多連式アーチダム。堤高30mの小ぶりのダムですが、堰堤直下に行けるので間近に見ることができます。堰堤脇を上ると天端ギリギリまでの満水だったのでびっくり。 |
◆大分県道11号線(由布岳山麓) <2012/10/3> 大分空港へ航空機輪行。杵築から別府を経て、盆地の由布院へ快適ダウンヒル。この先、由布院から阿蘇までが "やまなみハイウェイ" と呼ばれていますが、「道」としてはここが最高。 |
◆丸亀城石垣 <2016/6/20> うどん県。「谷川米穀店」(うどん屋です)の営業時間にあわせたため目的地の琴平に早く着きすぎ、予定外の丸亀城へ。総高66mの石垣は高度感抜群でした。 |
◆筑後川橋梁 <2016/10/17> 久留米から佐賀経由、国鉄佐賀線跡の自転車道を走ると秀美な筑後川橋梁。あいにく閉鎖日(月曜日)だったので走れず。要再訪か。 |
◆大河津分水 <2010/9/12> 中越震災復興プランニングエイドの、法末 「へんなかフェ」に泊まった後、小千谷駅から新潟駅まで輪行。弥彦山の海側を走り大河津分水へ。山を開削した分水路を遡上すると、2000年に通水した二代目洗堰(可動堰)。ここは地形を変える土木工事。初代洗堰、洗掘と戦う第二床固も記憶に残ります。 |
◆吉見百穴地下工場跡 <2017/6/9> 日本海サイクリングの初日の寄り道。古墳時代につくられた埼玉県の吉見百穴は昭和の観光地ですが、その地下は戦争末期に中島飛行機の移転先として碁盤の目に開削されました。 |
◆水戸市水道低区配水塔 <2017/6/24> 苫小牧からフェリーで大洗へ。自転車乗りは5人。米国人は土浦、カタルーニャ人カップルは霞ヶ浦、若い日本人は葛飾、私はいちばん近い水戸へ。建屋ですが土木学会選奨土木遺産なので、水回りは土木の範疇のようです。 |
◆角島大橋 <2018/4/20> 日本を代表する観光スポットとなった山口県の角島大橋。2000年に開通、総工費149億円。やはり、選んでしまった。 |
◆大谷川砂防堰堤 <2018/7/30> 木曽三川の改修で有名なオランダ人土木技師ヨハネス・デ・レーケは明治6年に来日、帰国まで30年に渡り、砂防や治水の近代化に尽くしました。うだつの町、徳島の美馬市脇町に残る小作品。 |
最後まで迷って選外となったのは、神戸の布引五本松ダムと高知の魚梁瀬森林鉄道、法恩寺跨線橋。 |