いろいろな段取りがうまく行くと、フィリピンのマヨン山の麓へ行っているはずです。今回は、自転車なし。 |
段取りがうまく行っても、天候は運次第。 |
国土交通省の「重ねるハザードマップ」を見る |
多摩武蔵野スリバチ学会の後、渋谷経由、五反田の宴席へ。渋谷は時間調整で、ヒカリエの「スカイロビー」。 初めてと思って来ましたが2回目でした。11F でスカイロビーを名乗るのはいかがなものか(^_^) ただし、当分渋谷の変化は続きます。 工事中の銀座線渋谷駅。ホームは最終的に130m 足元(ヒカリエ側)に移動し、アーチ状の屋根直上にスカイデッキを配置するとのこと。 |
スカイロビーにある 1/500ジオラマ。再開発が続く渋谷の最終型。 |
五反田で散会後は、大井町線下神明駅まで散歩。水はけの悪い地域。 山手線の下をくぐり、湘南新宿ラインを陸橋で越え、横須賀線と東海道新幹線をくぐり、再度湘南新宿ラインをくぐり、大井町線下神明駅到着。 |
下神明駅のホームの上は東海道新幹線、下は(見えないが)横須賀線。 |
<1/10000東京時層地図> 明治末 大正末 |
昭和戦前期 高度成長前夜 |
歩き 1.9km。 |
標高グラフ付きの大きな地図を見る |
雨天決行があたりまえだのスリバチ学会。雪のちらつく中、参加者は40名あまり。副題は "住宅街に隠れた地形の「何か」を確認しに行く" 。今年2回目の多摩武蔵野スリバチ学会です。 今回は、若い頃6年住んだ用賀がスタート。当時住んでいたワンルームマンション、健在でした。 |
大山道追分。近年、まちおこしの一環で標石を設置しています。共に大山道ですが、左(北)は世田谷城を経由する古い道、右(南)は旧246となった三軒茶屋を経由する道。何気に専門家が一緒に歩いているのがスリバチ学会。今日は荻窪圭さん(ITライター兼古道研究家)がご一緒です。 |
昭和初めに整備された用賀、上用賀。地理院の「明治期の低湿地」を重ねて見ると、台地の尾根を流れる品川用水、台地下には天神溜池。 台地は陸上自衛隊用賀駐屯地(陸軍衛生材料廠の跡地)、平地は碁盤の目に整地されています。 |
整地された道路の多くには水路(暗渠)が流れています。染工場(廃業)もありました。 |
用賀本村稲荷神社にはオオカミの護符。武蔵御嶽講グループです。 |
用賀中学校の近くには橋の欄干が残っています。矢沢川湧水池跡から着せ替え地蔵(!?)を経て、千歳船橋で昼食。 |
午後の部は一旦環八へ。1991年の竣工の M2ビル。近年は木材を多様し、新国立競技場を担う隈研吾の(たぶん)過去恥部です。高知県檮原町の「ゆすはら座」以降、作風が変わりました。 |
笠森公園と荒玉水道道路。笠森公園の地下には谷戸川が南流していますので、水の流れは地下で立体交差しています。荒玉水道道路は砧浄水場から野方配水塔までの直線道路、2011/6/4 に自転車で全線走っています。 |
右が荒玉水道道路。周りは無視しての直線道路です。 |
密蔵院前の水車堀。大正期の1/10000地形図には水車記号。 |
NTTの電信柱には「牧場支」の番札。昭和37年に閉鎖された三井牧場の名残です。三井合名が大正7年に作った三井家向けの乳牛牧場で、1958年発行の 1/10000地形図「経堂」には、昭和40年図式でなくなった地図記号「牧場」が使われています。 |
(参考) 溝の口上空から千歳烏山方面。地理院色別標高図+明治期の低湿地+川だけ地形地図。多摩川の広い氾濫域。 |
歩き 15.5km。 |
標高グラフ付きの大きな地図を見る |
埼玉スリバチ学会は2回目の参加。東川口駅に10時集合とのことですが、まったく土地勘がない地域。永田町乗り換え、東京メトロ南北線(相互乗り入れ)経由、埼玉高速鉄道線で向かうことにします。赤羽岩淵駅までは南北線、埼玉高速鉄道線は8駅、14.6 kmで、東川口駅の次が終点の浦和美園駅。東川口駅は「ガチャの聖地」を目指しているとのことですが、その所以は不明。 総勢40名弱。「崖と谷と切通しの用水」を巡るフィールドワーク開始です。 |
東は綾瀬川、西は芝川(見沼中悪水)に挟まれた台地。重ねるハザードマップにルートを描くと、台地の縁をたどったことがわかります。 |
台地の高さは概ね15m、低地は4~5m。標高差は10mあまりですが境目は明確。ここの標高差はもっとありそう。 |
1/50000「大宮」(昭和5年発行),「野田」(昭和6年発行)。歩いたのは主に埼玉県北足立郡戸塚(とづか)村。1956年に大門村、野田村と合併し美園村。1962年に旧戸塚村と旧大門村の差間・行衛が川口市に編入されています。南北に延びるのは日光御成道(岩槻街道)。台地を穿つのは見沼代用水東縁(ひがしべり)から取水した赤堀用水。 |
西光院から台地の縁(へり)を無理くり南下。 |
谷戸のあと。緩やかな窪みになっています。 |
植木の産地として栄えた安行(あんぎょう)界隈。埼玉高速鉄道の戸塚安行駅も開設され、宅地化が進んでいます。 |
一旦、綾瀬川の氾濫平野へ降り、赤堀用水に沿って上流へ。台地を開削し江戸中期に通水した赤堀用水、かつては竹林や照葉樹林の中を流れていました。 |
両岸から宅地が迫る赤堀用水。 |
見沼代用水東縁と赤堀用水取水口。用水の取り入れ口は "元圦(もといり)" と言うようです。 |
天狗の鼻と呼ばれた台地の西肩には、東沼(とうしょう)神社。 |
形のいい、富士塚(見沼富士)がありました。 |
旧大門村の差間(さじま)、行衛(ぎょえ)は現:川口市、他は現:さいたま市。川口市の大字差間の読みは「さしま」。今日は境界協会ではありませんが、市境(舗装の違い)は見逃しません。 最後は、東川口駅に戻り解散。帰路は、JR武蔵野線武蔵浦和駅経由、埼京線で帰りました。 |
歩き 14.4km。 |
標高グラフ付きの大きな地図を見る |
ブラツバキ花街系は2回目の参加。前回はカフェー建築の残る、吉原、玉の井、鳩の街(2018/2/12) 今回は、共に「遊園地」と称された "亀戸"天神裏と"洲崎"パラダイス を訪ねました。 集合場所の錦糸町駅へ行く前に両国駅で下車。1970年ごろまでは、房総方面へのターミナル、貨物駅としての役割を持っていました。 |
跡地は、今日千秋楽の両国国技館や江戸東京博物館。 |
両国で降りた目的は、妹島和世設計の「すみだ北斎美術館」 外観だけ。思っていたより小ぶり。 |
ブラツバキ Vol.6 の参加者は40名あまり。関東大震災の復興事業で整備された錦糸公園(元の兵器支厰倉庫)から天神裏の私娼街跡を抜け、天祖神社(亀戸)へ。 |
関東大震災の翌月(1923.10)に発行された「最新模範東京市全図 大正12年9月1日 大震大火 (焼失) 地域図」では、東京市本所区と葛飾郡の境界がそのまま延焼境界。この時点で既に遊園地の表記がある天神裏。被災した浅草十二階から業社が移転し更に発展したようです。 |
玉垣には、殷賑を極めた「遊園地」の文字がダブルで。今とは遊園地の意味合いが異なります。 |
天祖神社の焼却炉は神明造り。 |
天神裏の天神は学問の神様、亀戸天満宮。正式には亀戸天神社。 |
亀戸香取神社には、亀戸三業組合や亀戸警察署の奉献碑。さすがに亀戸警察署は戦前の皇紀二千六百年記念ですが。 |
後半は、都バスで亀戸駅から江東運転免許試験場前へ。以前、場所が特定できなくなっていると読んだ記憶のある洲崎球場、判明したようです。「量水塔」は、どんな機能があったのか不明。 |
1887年(明治20年)の帝国大学校舎の新築に伴い、風紀上の観点から根津遊廓が移転した洲崎弁天町。学問の神様と違い、生身の人間は離さないといけないようです。 現在は、東陽町1丁目。洲崎パラダイスのよすが(縁)は、供養碑と電柱番札くらいか。 |
古い埋立地である洲崎と新しい埋立地。塀を上ると、ほぼ地面。洲崎の方が1m以上低いのは、パラダイスのよすが(因)か? |
最後は、波除碑と几号水準点のある洲崎神社。海老名香葉子と実家「竿忠」の玉垣がありました。 |
歩き 10.4km。 |