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日本地図学会アウトリーチ専門部会の「地図塾」第13回 「立体地形を見るには赤色に限る」 に参加しました。場所は地図の聖地、日本橋武揚堂。ゲストスピーカーは、赤色立体地図の発明者、アジア航測の千葉さん。前日も、多摩武蔵野スリバチ学会でお会いしています。 |
地理院地図にも標準整備されている赤色立体地図。日本全国、見ることができます。 |
透過性を自由に調整し、地理院地図と重ね合わすことも可能。 |
・航空レーザ計測で、地表の高さを正確に測れるようになった。葉っぱの隙間から地表を測定。お茶畑、クマザサは苦手。+-15cmの誤差。 ・明るさ(稜線では足下からも、谷では狭まる自然光)を算定して尾根、谷を描写する。 ・縮尺、見る向きにかかわらず、傾斜を表現できる。 ・赤色の濃淡色別は人類が得意とする。(肉やマグロの鮮度判断は、生死につながる?) 印刷も簡便。 |
・等高線では、劇的に精度を増した計測値を表現できない。 |
・微地形の可視化も可能に。放牧地の川跡。 |
・中世の山城もいくつか発見されました。 |
国際的にも注視されている赤色立体地図ですが、なんと言っても千葉先生は話が面白い。2時間があっという間でした。 |
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スリバチ学会系のフィールドワークに初めて参加したのは、2015/12/12 多摩武蔵野スリバチ学会(TMS)の「多摩丘陵の谷戸と古道」です。facebookでのつながりをベースとした緩やかな集まりとの認識でしたが、既に常連さんが多く戸惑った記憶があります。名所旧跡を巡る街歩きとは一線を画す、地形オリエンテッドなルート設定に、すっかりハマってしまいました。真貝会長、和田副会長のぶれないスタイルには、東京スリバチ学会(皆川会長)などと共に、ひとつのジャンルを確立させた力を感じます。 仙川まで自走し会場の「スタジオゆるり」へ。参加者は50名あまり。5周年記念の今回は、フィールドワーク+講演の2本立てです。 |
甲州街道をまたぐ谷戸田と水路。現在の地形図だと、住宅地散歩。 |
1909年(明治42年)の地形図だと、三鷹村、神代村の入り組んだ谷戸田。高低差を突っ切る甲州街道滝坂道。通年通水箇所には水車。地図からは読み取れませんが、水利権の絡む用水と自然河川が輻輳しています。 |
台地の間は田んぼ。 |
たぶん、左の土手上が用水、歩くのは暗渠となった河川。 |
絡み合う水路と境界。把握できない、復習の要あり。 |
第2部は、千葉さん、本田さんの講演。先ずは、赤色立体地図の千葉さん。なにげに、その道の第一人者が参加しているスリバチ学会。千葉さんは、赤色を封じ手に 2014/6/24 の調布・三鷹の降雹災害のお話。赤色立体地図は、日本平夢テラス(2019/7)、洞爺湖有珠山ジオパーク(2017/6)で撮影したもの。赤色立体地図のお話は明日の日本地図学会で伺うことにしましょう。 |
次いで、暗渠の第一人者本田創さん。アメリカ音楽にも造詣が深い本田さんですが、フィールドワークに合わせた川のお話。千葉さん、本田さんともTMSのフィールドワークにも参加されているので、和気あいあいの講演です。 |
第3部。5周年おめでとう。日本代表も華を添えてくれました。 |
22km + 歩き 6.9km |
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DAHON K3 の特性を生かして近場の輪行。田園都市線溝の口で乗り換え大井町へ。朝のラッシュが終わった時間帯。DAHON K3 は、全く迷惑にならない大きさ。 |
山内容堂墓。鮫洲駅近く、立会小学校の校庭横。この場所は遺言によるもの。 |
品川の荏原神社。目黒川旧河道あたり。川の直線化により荏原神社は、目黒川の右岸から左岸へ変わりました。 |
更地になった旧築地市場を抜ける仮設の環二通り。進入できず。「えっ、気付きませんでした」とは言わせない。 |
K3 ポートレート、勝鬨橋。 |
K3 ポートレート、東京都現代美術館(MOT)。 |
K3 ポートレート、六間堀のブレーメン カフェ。 |
K3 ポートレート、横十間川テラス。 |
城東電気軌道(都電砂町線)跡。 |
半蔵門線錦糸町駅から輪行、28.4km。 |
2泊した十津川村ですが、1泊目の武蔵集落は国道から200m上った緩やかな傾斜地で、宿の前は明治8年に開校し、昭和45年に閉校(統合)された旧武蔵小学校。現在の村役場は標高170mですが、「歴史民俗資料館」で教えてもらった旧役場は小森集落にあり標高400m。明治期までは集落も道路も尾根筋にあり、熊野古道も人里離れた山中の道でなく、集落をたどる参詣道でした。 明治以降の川沿いへの遷移を、学校の移動で地図化しようとしましたが、現在は村全域で小学校が2校なのが分かり断念。村の広さは東京23区より広いのに。 次善の策として水準点(国道や主要道沿いに設けられた標高点) 地図記号は "□の中央に・" を比較してみました。 対象としたのは、1914年発行 「十津川」1/50000の一部。 1等水準点は、11ヶ所 小森 533.46m 沖之口 614.78m 尾越 677.98m 樫原 525.38m 平谷 147.44m 西川 169.68m 小井 165.15m 桑畑 190.50m 二津野 267.67m 果無 225.19m 七色 128.58m |
同じ範囲を現在の地形図でみると、1等水準点は、12ヶ所 湯之原 187.2m 湯泉地 172.0m 小原 176.8m 滝 160.9m 今戸 169.3m 山崎 152.5m 豆市 163.8m 平谷 143.6m 桑畑 143.6m 二津野 253.9m 果無 164.3m 七色 127.6 m 平均標高 331.4m が 163.4m になっています。人々が山から下りてきたのが近代化の一つの姿。 |
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「ブラツバキVol.10 旧東海道を歩く 品川から大森・羽田~京急と共に」 に参加しました。集合は 10時に京急の北品川駅。大井町線の大井町駅から歩いて合流しました。総勢30名あまり。主催の椿さんの持札、旧三業地がメインです。 |
台風15号の強風の跡が残る東海道線沿いに歩くと、碑文谷ガード。品川から碑文谷への道があったらしい。目黒川を渡り、日本地理学会で毎年発表している品川女子学院の脇を抜けると北品川駅。 |
椿さんプロみたい。映画 『幕末太陽傳』 の舞台はこのあたり。色街テーマだと女子が多いのは気のせいか。 |
鯨塚から、御殿山下台場跡、正和稲荷大明神。 |
電柱の番札に残る三業地の痕跡。芸妓屋(置屋)+料理屋の営業許可地区は二業地、+待合で三業地。 |
荏原神社。社殿は弘化元年(1844年)建造。氏子区域は、東品川、南品川など。 |
目黒川右岸にあった荏原神社は、川の付替えで左岸に変わりましたが氏子は右岸。 |
京急に乗り新馬場駅から立会川駅へ移動。東京湾に面した風光明媚な大井三業地。料亭はマンションに変わりました。地図下部、東西に延びるのは大森駅からの大森支線。品川駅までの延伸前は京急の東海道線への連絡線。1937年(昭和12年)廃止。 |
昼食はいすゞ自動車の工場だった大森ベルポート。ベルは "鈴" から。取り壊された料亭の奥に姿を表した古い家屋。磐井神社の摂社、海豊稲荷神社の玉垣? には多くの料亭が。 |
再度京急に乗り穴守稲荷駅。鈴木新田の潮除守護神として江戸期に勧請。1945年、GHQによる羽田空港拡張のため強制退去。 |
多摩川左岸、昔の羽田猟師町。五十間鼻無縁仏堂、玉川弁財天、水神社。漁師町は、祀られる神様が多い。レンガ造りの堤防。弱々しいですが、埋まっている根っこ部分は広がっているようです。大師橋の親柱が残る羽田の渡しで、反省会へ向かうみなさんから離脱。 |
日没間際に西の空が晴れる。川崎駅までの土手道は殊のほか長かった。 |
歩き 16.9km (ブラツバキ前後を含む) |
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雨。気温が下がったのはありがたいですが、しっかり降ってます。先ずは新宮城跡へ。紀勢本線は、城跡をトンネルで抜けています。 |
熊野川。対岸は三重県。 |
新宮城の「水の手」跡。熊野川に面した船着き場です。 |
熊野速玉大社。半数以上が欧米人。アメリカ(カップル)、フィンランド(6人グループ)とお話しましたが、みなさん、よく知ってる。 |
神倉神社。熊野速玉大社の摂社ですが熊野三山では最も古い聖地で、御神体はゴトビキ岩。熊野速玉大社が新宮と呼ばれるのは、神倉神社に対する新宮社という位置づけです。 自然石の石段は滑りやすく、帰路下れるのを確認しながら上りました。 |
春日から緑ヶ丘。今は平坦地ですが土地の成り立ちが「山地」のエリアは、中上健次が描いたあたり。 「大逆事件と新宮の文学散歩」などの街歩きコースも設定されています。 |
1/50000「新宮」大正10年発行。 |
1/50000「新宮」昭和22年発行、「阿田和」昭和22年発行。 |
鉄道路線だったと思われる道。 |
廃線探索は、雨でわらわら。不完全に終わりました。 |
大阪方面のJRは運休。熊野市まで走り、花窟神社に立ち寄る計画でしたが、予定より早い特急「南紀」で名古屋経由帰宅しました。 |
12km。 |