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DAHON K3

DAHON K3
2019年購入。14 inch,7.8kg,3速。

KHS F20-R451

KHS F20-R451
2015年、台北で購入。そのまま阿里山、塔塔加へ。

KHS F20-T3

KHS F20-T3
2012年、台北で購入、そのまま中部横貫公路越え。

Bianchi Lupo

Bianchi Lupo
イタリア製と思いきや台湾製。基本パーツはSHIMANO TIAGRA。クロモリです。

KHS F20-T2

KHS F20-T2
2009年、台北で購入、そのまま一周。けっこう走れます。2019年、退役。

mayfly 2

mayfly 2

MARIN Pine Mountain

MARIN Pine Mountain
1992年 米国製。SHIMANO DEORE DX は25年間ノートラブル。2017年、退役。
 
 

肥後細川庭園ライトアップ

2018年11月24日土曜日

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 野良スリバチが終わった後、紅葉ライトアップ中の肥後細川庭園へ。
 前方は江戸川橋地蔵通り商店街。神田川の氾濫でどこからか流れ着いたお地蔵様を里人がお奉りしたのが「子育て地蔵」の由来らしい。神田上水取水口大洗堰跡で神田川を北岸へ渡り、関口水神社のお隣が文京区立肥後細川庭園。
 2018年のライトアップは、11/23 - 12/2、300円。
 帰路は、甘泉園公園脇の水稲荷神社を抜け、国の重文「学習院旧正門」の前を通り、副都心線西早稲田駅から帰宅。
 歩き 5.5km。

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 野良スリバチ発祥の地の再訪。私は初参加です。
 牛込台地、驚きの連続。見知っている街も、ビルに隠れた裏道に入ると別の顔を持っていました。
 復興局土木部編「東京市高低図」1925年(大正14年)にルート全体を重ねたもの。土地本来の高低差が明瞭です。
 市ヶ谷駅 12:50 集合。今日の先達、長身痩躯のDさんの下、総勢40名あまりでスタートします。
 地図は明治初めにつくられた、五千分一東京図測量原図。
 先ずは、市谷亀岡八幡宮への石段を上ります。ここには、内務省地理寮が明治8年ごろに置いた几号水準点があります。何故か神社の水鉢が上に置かれていますが、新宿区教育委員会の案内板には「設置当初の場所に位置する希少な几号水準点で、保存状態も良好である」と書かれています。
 本殿の裏に抜け道が。接しているのは防衛省の敷地。「陸軍用地」「陸軍省所轄」の境界石、+たぶん石に戻った旧墓石。
 路地を抜けると視界が開け、長延寺があった崖下には都営長延寺アパート。まさか、ここに崖があるとは。
 明治初めまでは谷戸田だった市谷鷹匠町から市谷砂土原1丁目。この谷は、大日本印刷のショバ。再開発中です。
 納戸町の工事現場。何か出てきちゃったみたいです。
 <浄瑠璃坂から袖摺坂>
 浄瑠璃坂を下り、鰻坂を上った先には、国の重文、旧馬場家牛込邸。最高裁判所長官公邸を経て現在は補修中です。逢坂を下ると坂倉準三設計のアンスティチュ・フランセ東京(旧東京日仏学院)。
2018/9に、ここで開かれた 坂倉準三展はこちら。
 一旦外堀に出た後、庾嶺坂(ゆれいざか)を上り神楽坂若宮八幡神社。
カーブを描く新坂は古い地図にありません。崖を斜めに開削した勾配の緩やかな車両用の坂です。都電の走っていた大久保通りは狭い谷で、地下には都営大江戸線牛込神楽坂駅。すぐに袖摺坂を上り横寺町。
 <袖摺坂から瓢箪坂>
 木造住居が残る新宿区横寺町、路地の奥には尾崎紅葉旧居跡。矢来町から早稲田通りを渡ると赤城下町。銭湯のある昭和の町。
 赤城下町の狭い路地を入ると傾斜を利用した "あかぎ児童遊園" 。こういう場所を逃さないのがスリバチ流。
 赤城神社への坂を上り赤城元町。明治初めに拝殿のあった場所は、神社経営の "あかぎカフェ" の入るパークコート神楽坂に?。赤城小学跡地には都の教育庁舎と生涯学習館。役所は土地を手放しません。
 <瓢箪坂から軽子坂>
 瓢箪坂を下り、御殿坂を上ると筑土八幡神社。境内には神楽坂の料亭の寄進名が並んでいます。
 神楽坂核心部。初めて歩きました。8月に台湾からAndorewが来た時のリクエストが神楽坂。表通りだけ案内しましたが、ガイド失格だったようです。
 最後は、軽子坂を下り、舟運時代の牛込揚場、飯田橋駅で解散。
 歩き 7.4km。

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 歴史古街道団の探索ウォーク 「~徳川家康の日光改葬千人行列の道を探る~ 御尊櫃御成道と小野路宿&木曽宿の一里塚」に参加しました。場所は、東京都町田市が神奈川県に食い込んでいるあたり。
 御尊櫃御成道は、"ごそんひつおなりみち"、家康の御尊櫃を久能山から日光へ運んだ経路のこと。櫃の中身は諸説あり。
 小野路宿里山交流館に自転車をデポし、先ずは都道156号線の旧道にあたる矢倉沢古往還(鎌倉街道、大山道)を進みます。明治の初め、自由民権論者が行き来した道でもあります。
 御尊櫃御成道を整備したときにつくられた小野路一里塚。御尊櫃は、元和3年(1617年)3月21日に、ここを通過しました。一里塚は路を挟んで両側につくられますが、現存するのは北側だけです。
 北東から延びる谷戸田の奥で、傾斜がゆるくなっている場所。今は野津田公園になっています。歴史古街道団の宮田団長の考察では、古代の牧だったのではとのこと。 陸上競技場で分断された古道の一部も残っています。
 旧版地図は、1/20000「原町田」明治42年製版。
 鶴見川へ下る道。いずれも、古くからの鎌倉街道です。たまたま現在まで残った文献に記載される道に限定する必要はない。軍馬の通った傾斜のゆるやかな道、傾斜のある人道など。室町期以前の道は、九十九折でなく切り返しは1、2回だったとのことです。下った先は、律令期の駅屋跡かも。
 鶴見川の低地。流路が変わる度に道も付け替えられているあたり。古道も判然としません。
 圓福寺を経て、改修された鶴見川の河原で大休止。クレソンが自生していました。美味い。
 鶴見川を渡り、忠生への尾根道を上ります。ピンク線が御成道。肉眼でスカイツリーまで見えました。交通、軍事の要衝の地。
 忠生公園で休憩し、御尊櫃御成道(奥州古道)へ戻り木曽宿へ。広い敷地の農家が並ぶ御成道には水路も通っています。秋葉神社、一里塚跡。
 鉄道の通らなかった木曽宿ですが、1916年(大正5年)発行の1/50000 では、1908年(明治41年)開通の横浜線沿線とは比べ物にならない大きな集落です。
 町田街道の木曽バス停で解散。私は自転車デポ地の小野路まで戻ります。航空写真に残る鶴見川の旧河道。
 暗い中、橋の下にセンターラインが見えたので驚きました。旧河道中央にラインが引かれているの理由は謎。
 歩き 13.6km、自転車 28.95km。

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 埼玉スリバチ学会に初めて参加しました。正式名は「平林寺の紅葉と野火止用水&川越道・膝折宿と湧水」ですが、紅葉はまだでした。
 武蔵野線東所沢駅から、第二集合場所のバス停「史跡公園」へ向かいます。今日のルート、高低差はあまりありませんが、台地と低地が鮮明な地域です。
 明治始め、東所沢駅周辺は人家の無い畑、台地の崖下に集落、清瀬川沿いの低地に水田があります。清瀬川の旧河道が都県境。
 今でも駅前を外れると畑地。急な斜面を下ると昔からの人家が並びます。
 高低差を強調すると、こんな具合。
 東京都清瀬市を抜けて、集合場所の埼玉県新座市へ。平坦地の都県境をチェックしようと思っていたら、国境でした。
 大和田通信所は1941年に設置された海軍の通信所で、現在も米軍と防衛省が共同管理しています。ここで 「トラトラトラ」を受信したらしい。門柱の場所は旧軍施設のあったところです。何かの遺構かも知れません。航空写真は1947年12月。
 バス停「史跡公園」へ直接来たのは4名。本隊と合流し総勢30名弱で 「埼玉スリバチ学会」のフィールドワークを開始。
 野火止用水は、玉川上水(1654年完成)の総奉行、松平伊豆守信綱(川越藩主)が立川から分水し、自領の野火留に引いたもので、玉川上水の翌年に完成しています。左が本流、右は平林寺堀。
 現在も畑作地帯。手入れの行き届いたプロの畑地です。農産物の無人販売所を襲いながら進みます。
 関越自動車道を渡る野火止水路橋。ただし、現在流れているのは、水質悪化により1973年から取水停止していたものを、下水の高度処理により1984年に復活させたものです。
 平林寺で一旦離脱し、野火止用水陣屋堀跡へ。陣屋堀は、4つあった野火止用水の幹線水路の一つで高崎藩の陣屋を経由しています。午後は、再合流し川越街道を横町六地蔵へ。
 川越街道の膝折宿は、台地を下った黒目川の低地にあります。明治42年製版の1/20000「膝折」を Google Earth に重ねたもの。
 地倍(ちばい)の坂を下ると、ゴウドウの坂との分岐。地形図の変遷で見ると旧街道は地倍の坂。明治末か大正初めに、傾斜の緩やかなゴウドウの坂が開削されたことがわかります。地形図は、大正8年発行。
 膝折宿の本陣跡は大正11年設置の三等郵便局(=特定郵便局)。脇本陣の「村田屋」(18世紀末建造)は現存。地図記号の「水車」が多数記載されています。
 黒目川の低地を抜け、陸上自衛隊朝霞訓練場に接する氷川神社へ。
 台地との比高は10mほど。境内では、斜面からの湧水が見られます。
 キャンプ・ドレイク(キャンプ・ノース・ドレイク)が現役のころ。1/25000「志木」昭和42.10.10発行。ベトナム戦争のテト攻勢前夜。
 ドレイクは、1945年にフィリピン・レイテ島で戦死した第5騎兵隊のロイス・ドレイク大佐から命名されたものです。今は学校や遊休地となっています。
 広沢の池から、新河岸川(隅田川)へ続く暗渠を経て朝霞駅で解散。最後は、都県境を越え、東京メトロの通じる和光市まで歩き、副都心線で渋谷まで一本。
 歩き 24.5km

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