1/50000 「東京東北部」昭和7年発行 |
境界協会の 「荒川区vs北区+旧三河島汚水処分場喞筒(ポンプ)場見学+足立区」 に参加しました。集合は田端駅北口改札に 12:00、山手線の駅ですが初めて下りるかも。総勢40名あまりでスタート。 |
東京都北区東田端2丁目19番地あたり。鉄路川の中洲です。民家もあり滝野川第四小学校もあります。 <東京時層地図> 右回りに、明治終わり、関東地震直前、昭和戦前期、高度成長前夜。昭和戦前期(1940/3発行)の鉄路がスカスカなのは戦時改描か。 |
線路に挟まれた隘路を抜けると中里貝塚。知りませんでした。1996年に発掘調査された縄文時代の認識を改める大規模貝塚で 2-4mの層、加工処理を行うための木道も設置されていました。 |
昭和風地下道を抜け尾久駅(おくえき)へ。駅名はOKU、地名はOGU ですが、駅があるのは北区昭和町。尾久の地名が残るのは荒川区東尾久、西尾久。元々は、武蔵国豊島郡小具郷と呼ばれた広域地名のようです。 |
北区の舗道柵。 |
凝った意匠。入り組む区境。1つの家屋に謎ドア、謎はしご、謎階段。 |
都電荒川車庫の転車台? 前後無用なのでスライド式に入れ替える。すべて1両編成なので、大混乱はしないもよう。 |
荒川車庫前駅から荒川二丁目駅まで乗車し三河島水再生センター(東京都下水道局)を見学。 |
国の重文(建造物) 「旧三河島汚水処分場喞筒場施設」 1924年(大正13年)開設。 |
喞筒(ポンプ)場内部。ポンプは後の荏原製作所製。現状のポンプは、1964-73年に置き換えられた2-4代目。 |
施設の歴史のみならず、鉄材や煉瓦の由来も詳しく説明していただきました。 |
隅田川を渡り、千住青物市場「やっちゃ場」を経て、旧日光街道で解散。 |
打ち上げへは行かず、前日に引き続き、急遽開催された夜のブラツバキで夜の千住を徘徊。1929年(昭和4年)に建てられた旧千住郵便局電話事務室は、聖橋, 日本武道館などを設計した山田守の設計。 |
16.3km |
標高グラフ付きの大きな地図を見る |
多摩武蔵野スリバチ学会の「旧澁谷町水道みちを歩く ~三軒茶屋から砧下浄水所まで~」 に参加しました。集合は三軒茶屋キャロットタワー下に 12:00。スタート前にタワー26Fから、まっすぐ延びる水道道をチェック。 |
参加者は50名あまり。任意で集まり、この人数でスムースに動けるのはスリバチ学会の強みです。今日は水道道を歩くので、原則フラットで真っ直ぐ。 |
電柱の番札は水道支、水道用地の境界石。 |
駒沢給水塔では風景資産保存会の方から説明をしていただきました。旧澁谷町町営の給水所として、1924年(大正13年)3月に供用開始。それぞれの塔の内径13.93m、高さ22.72m。土木学会選奨土木遺産に選ばています。1999年に運用停止。 |
昭和6年発行の 1/25000 「東京西南部」では、水道給水場と注記。街はずれの丘の上に立つ2つの塔。谷戸は水田です。現在の地理院地図に塔が記載されていないのはなぜでしょうか。戦時改描を思わせます。 |
岡本には仲代達矢、宮崎恭子の無名塾。 |
澁谷水道の水は多摩川の伏流水を砧下浄水所からポンプで駒沢給水塔(標高46m)まで揚げ、渋谷までは自然流下させていました。途中の岡本八幡宮の台地を穿つのが岡本隧道。隧道の出口(駒沢側)から岡本八幡宮の山越え。 |
燈籠を寄進したのは有名なご夫婦。隧道の入口(砧側)、こちらには銘板があります。 |
岩崎家廟堂のある静嘉堂緑地と岡本公園あたり。国分寺崖線の下には六郷用水。1969年までは東急玉川線砧支線が延びていました。 |
野川を渡り東京都水道局砧下浄水所。1932年(昭和7年)の東京市大合併に合わせて澁谷町から移管されました。施設は現役で、浄水能力は東京都全体の1%ほど。現在の給水経路は、水道局サイトでは紹介されていません。複雑に多重化されているようです。 |
バスの待合所になっている砧本村駅の遺構。多摩川伏流水の取入口(空気弁か?)を経て、二子玉川で反省会。 |
その後、急遽開催された夜のブラツバキで川崎へ越境、二子新地を徘徊しました。川崎国はベルヌ条約非加盟です。 |
11.8km |
1/12500、米陸軍(1946年)を見る |
川崎探検隊の "京浜伏見稲荷で初詣+新丸子の商店街や旧三業地散策" に参加しました。武蔵小杉東急スクエアの地下駐輪場に停めて集合場所の東横線新丸子駅へ。ムサコでは、最後の?タワー「コスギ サード アベニュー」が建設中です。 |
新丸子、初めてです。総勢10名、地元のIさんの先達でスタート。駅の東口、子供は行ってはいけない場所。行ってはいけないが、狐の目が怖かった記憶が(笑) |
旧三業地に建つ京浜伏見稲荷は1951年創建の新しい神社で、いろいろな日本一があります。 |
田んぼだった低地を抜け多摩川の自然堤防(黄色)へ。 重ねるハザードマップ(国土交通省) |
江戸期は山王社と呼ばれた日枝神社。三間社流造の本殿は1740年に建てられたもので、川崎市重要歴史記念物に指定されています。氏子衆もしっかり組織されているようで神輿庫も並んでいます。 |
大楽院から旧三業地あたり。昭和初めには「へちま風呂丸子園」が開業し歓楽地として栄えましたが、痕跡は見つかりませんでした。宅地の区画も変わったようで、玄関を付け替えた住居がありました。 |
左:1/20000「溝口」1909年発行、右:1/10000「田園調布」1940年発行。(東京時層地図) 河原にあった青木根集落は移転。跡地につくられた多摩川スピードウェイの自動車競走大会には本田宗一郎が「浜松号」で参戦しました。 土手にある丸子渡しの碑は、実際にあった船着場からはずいぶん離れています。 |
左:1/10000「田園調布」1958年発行、右:1/10000「武蔵小杉」1985年発行。(東京時層地図) オリンピア球場!? |
丸子温泉(銭湯)で天然の黒湯につかったあと、河原で焚火と新潟の地ビールと言う川崎探検隊らしいよくわからない展開。打ち上げには参加せず、自走で帰宅。 |
歩き 5.1km、自転車 20km。 |
3日目(橙線)の地図を見る |
最終日、2泊した東急宮古島リゾートをチェックアウトし 9:10 に出発。今日も晴れ。この時期に晴天が続くのは珍しいそうです。 初日に横を抜けたカママ嶺公園から平良港へ。至るところで見かけた木々に掛けているバケツは「ウリミバエ不妊虫放飼」 1987年に根絶が確認された農作物害虫の再侵入防止対策とのこと。 |
平良港近くの漲水御嶽(はりみずうたき) 鳥居があるのに驚きました。丘の上にはヤマト系の宮古神社。 |
ぶばかり石(人頭税石)。柳田國男の「海南小記」で有名ですが、身長で人頭税を課す記録はないようです。 |
北上し、観光ガイドブックに載る砂山ビーチ。ここは民有地。 |
海岸への地道があったので行ってみると、白砂の静かなビーチ。 |
案内板はありません。間那津海岸と言うらしい。ここ以外にも、案内のない美しい白浜がたくさんありました。 |
西平安名岬(にしへんなざき)、沖に見えるのは池間島。 |
西平安名岬からの池間大橋(1992年開通、全長1425m) |
牛しかいない宮古馬放牧場? まで戻り、世渡崎から池間大橋へ。 |
池間大橋南端の世渡崎。 |
池間漁港の池間食堂でオオヒメの刺し身。甘みがある味、美味い。漁場は尖閣とのこと。地元の人も来るのと聞いたら、「来るのは観光客だけ。池間の人は、魚は家で食べる」と身も蓋もない話(笑) |
部外者立入禁止の大主神社。分村先にはここから分祀。平良市(現:宮古島市)のマンホールは、トライアスロン。池間島灯台を経て島を一周。 |
帰路は島尻のマングローブ林から大野山林脇を経て宮古空港へ。途中のJAで緩衝材に使うダンボールを入手しました。宮古 19:50発、羽田 22:15着、羽田からはバスでたまプラーザへ。 |
65km |