標高グラフ付きの大きな地図を見る |
境界協会の「船橋市飛地・まるっと丸山へ参る!境界と地形、ご覧あれ! with 千葉スリバチ学会」 に参加しました。集合は、東武野田線 馬込沢駅、参加者は60名弱、facebookでの告知からに加え、船橋ミライ会議繋がりの方もいます。 |
今日のテーマは多彩で、 (1)谷戸(谷津)に延びる鎌ヶ谷市に切り離された船橋市の飛び地境界 (2)飛び地(丸山)の高低差 (3)習志野鉄道連隊が残した橋脚 (4)団地内の境界線 (5)河川争奪 等々。 |
馬込沢を挟んで細長く延びる幅100mくらいが鎌ヶ谷市。 |
高台は船橋市、足元は鎌ヶ谷市。 |
船橋市に降った雨は両岸から鎌ヶ谷市へ/100%純粋階段 純度75%くらいの純粋塀/人柄の見える化 |
もう、どこを歩いているかわからなくなったころに陸軍境界標石が登場。 |
次いで、鉄道連隊橋脚。津田沼にあった第二鉄道連隊が訓練のために敷設した津田沼・松戸間の遺構です。 |
戦後、買い取った京成電鉄が新京成線とする際、短絡するため切り残した部分です。流路から取り残された三日月湖。 |
土地を造成した大成建設が寄贈した境界石(奥)。舗道の線も寄贈か。 |
河川争奪説のある北金杉川と南二和川。現地で見ても造成地が多く判断がつきません。高低差を色分けすると北金杉川の侵食力が強そうに思えますが、現在の分水界は移動していない気もします。 |
歩いたルートを昭和30年前後の1/25000 にトレース。北東から南西に延びるのは木下(きおろし)街道。利根川河岸の印西市木下から市川市行徳に続く街道。利根川の水運と行徳から小名木川(運河)を結ぶ陸路で、一部の区間では東葛人車鉄道(明治42年~大正7年)が営業していました。 |
まもなくゴールというところで、突然現れたニコニコ横丁飲食店街。不思議な建屋、前の道が市境で店は鎌ヶ谷市。短い飲食店街を抜けるとニコニコ湯。銭湯学派の人達が、ざわついていました(笑) |
定刻の17時に馬込沢駅で解散。大多数が反省会へ向かう中、反省しない2名と木下(きおろし)街道へ。船橋法典駅手前で単独となり、船橋送信所跡を経由して西船橋駅へ。 |
何度か名称は変更されていますが、最終的には海軍無線電信所船橋送信所。真珠湾攻撃部隊に「ニイタカヤマノボレ1208」の電文を送信した施設です。記念碑に書かれた名称は船橋無線塔。実は、往路も歩いており、その際は中央の記念碑へ。周回道路の脇にあるのは昭和37年通水の船橋高架水槽。 |
夜になった帰りは、3/4 ほど通信所の周回道路を歩きました。海軍境界標石は暗くて見つかりませんでした。 |
歩き 22.8km |
次は 鎌ケ谷市つながりで
柏市飛び地もよろしくお願いします。
また
松戸市内には鎌ケ谷市飛び地があったはずです。
北総線の南まで細く続く柏市の下手賀川最上流部や、道一本でつながる柏市西原、面白そうです。