村人の踏み跡が小径となり、大勢が歩く道は街道となる。 これは正しいですが、国家成立後の律令期はけっこうな中央集権国家で、都と国府を結ぶ広い計画道路があったことが、1970年以降明らかになってきています。 「古代吉野川下流域の条理と交通路」(鳴門教育大学研究紀要)によると、徳島の国府周辺にも直線道路が残っています。 さて、平塚にあった相模国府と橘樹郡にあった武蔵国小高駅を結ぶ古代官道説のある中原街道は・・。 厚木基地を横断する部分も、明治末期は直線です。多摩丘陵の末端部を地形の高低を無視して、直進しています。 |
(結論) 直線道路であるいことはわかります(見たまんま)。 計画道路か否かは諸説あるようです。 |
(おまけ) 震災以降、住宅地の地盤が話題になることが多いですが、川筋にあった元の水田に戸建て住宅が密集していることがわかります。 |
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