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神奈川スリバチ学会の「春爛漫 二ケ領用水を歩く」に参加しました。登戸駅 12:00 集合、迷った末、歩きで向かいます。川崎市宮前区と多摩区の境界は、山間部でもめったにない豪快なの切通しでした。西(左)側の尾根の先は向ヶ丘遊園の跡地です。 |
総勢25名あまりでスタート。神奈川スリバチ学会の旗が初登場。桜は満開、曇り空ですが、暖かくなりました。 |
重ねるハザードマップ(国土交通省)にルートを重ねて見ると、二ヶ領用水宿河原堰からの水路は、純然たる用水路ではなく、旧河道を利用していることが読み取れます。 |
宿河原駅の歩道橋から。右にカーブする車道は砂利採取線の跡。 |
川崎市緑化センターで休憩の後、宿河原7丁目から堰2丁目。いかにもの土手道は、やはり旧河道の土手。 |
久地駅の西。ここで、上河原堰と宿河原堰からの流路が合流します。 |
神奈川スリバチとは思えない平坦地が続きましたが、ここで豹変。ハザードマップの区分けでは "崖" となっている急坂を上ります。上った先には白い蛇を祀る松壽弁財天。「松にかかった白い布が命綱となり、多摩川の洪水から村人を救った。その白い布は、実は蛇だった」とのことで江戸の人気スポットだったらしい。 |
観光パンフも配布されていたもよう。 |
台地と入り組んだ谷戸からなる緑ヶ丘霊園。川崎市の公営墓地です。台地からの下りは、平瀬川下流の「後背低地・湿地」へ。見るからに水が溜まりそうな地形。 |
台地の突端には作延城があったらしい。台地からは、まさかの直滑降。 |
平瀬川の旧河道から河道トンネルの上を越えて久地円筒分水。ここの水は二ヶ領用水のもの。平瀬川とサイフォンで立体交差して円筒分水へそそいています。 |
横には、平瀬川を多摩川へ排水する短絡路(河道トンネル)の出口。 |
二ヶ領用水に戻り、「大山街道ふるさと館」を経て溝の口で解散、反省会へ。 |
TOTAL 16.8km (スリバチ学会は 11.4km) |
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千葉・地図ラーの会 日本橋支部の 「山本少年ふたたび!今度は湾岸地区まわるよー!!」 に参加しました。 ++は、その前後。 集合前に銀座の路地を少し探索。公道ではありませんが、神社もあれば、ドアには「通り抜けできます」との張り紙もあり。「銀座の路地」を主目的に一度来る必要あり。 |
さて、集合は歌舞伎座前に10時。総勢40名あまり。山本少年の案内は日本橋に続いて2回目になります。今日は、オリンピックに向け建設の続く豊洲あたりを廻ります。 |
勝鬨橋を渡り、インバウンドで賑わう月島。視線を上げると看板建築。 |
都内最古の交番建築。1926年築、2007年に交番から地域安全センターになり、警察官OB,OGによる地域安全サポーターが勤務しています。 |
黎明橋併設の「トリトンブリッジ」(2001年竣工,94.0m) 愛媛県やスイスでよく見かける屋根付き橋ですが、ここのはずいぶん違います。 月島運動場歩道橋から春海橋方面。 晴海橋梁(1957年竣工,58.8m) は、東京都港湾局専用線(晴海線、1989年廃線)の鉄道橋。 |
豊洲大橋からの晴海(北西)方面。建設が進むオリンピック選手村。左は廃止の決まった、晴海客船ターミナル。豊洲大橋は橋長550m、2018/11に暫定開通したばかりです。 |
豊洲大橋からの豊洲市場。紆余曲折の後、2018年秋に築地から移転しました。山本少年がUPしたターレの移動風景は、多数リツイートされていました。 |
1987年竣工、1991年に供用開始、3年後の1994年に廃橋となった青海橋(あおみばし) |
埋立工事用の位置づけなのでしょうか、現在では取り付き道路もなくなっています。 |
1956~1962年に南極観測船として活躍した「宗谷」 1936年にソビエト連邦通商代表部の発注で砕氷型貨物船として起工。引き渡しせず民間船を経由し大日本帝国海軍特務艦、1943/1には魚雷被弾(不発)、1944/2 空襲回避中に座礁。戦後は灯台補給船を経て初代南極観測船。数奇な運命。 |
潮風公園、お台場海浜公園からレインボーブリッジを渡り、芝浦ふ頭で解散。みなさんは、ゆりかもめで新橋へ。 |
反省会へは行かず、歩きで五反田へ。2017年に自転車で来た高輪橋架道橋を今回は歩きでぬけます。高輪橋がどれで、架道橋がどれ、はたまた橋架道と言う道があるのか、今もわかりません。「高輪ゲートウェイ」周辺の工事も進み、海側の高浜公園も閉鎖されています。 |
夜の高輪の裏道を歩き、東急池上線五反田駅から東急のみで帰宅。 |
32.1km。おそらく歩きの自己最長。ただし、GPS測定なので揺れて長めに測定されていると思います。 |
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専修大生田キャンパスでの日本地理学会、2日目は日本地図学会との共催でアウトリーチ研究グループのシンポジウム。主催者側のお茶女の長谷川准教授に加え、スリバチ学会の皆川会長、日本地図学会の太田さん(慶應普通部)、スリバチ仲間の島田二松学舎大教授。 聴衆側にもスリバチ人が多く、知り合いだらけのシンポジウムとなりました。スリバチ学会としては、本物の学会へ初の公式招聘(^_^) |
午後は皆川会長の東京スリバチFW。信濃町からスリバチの聖地荒木町を歩きます。地理学会としては巡検(地理用語)とフィールドワークの違いのヒントを? |
国土交通省の重ねるハザードマップにルートを書くと、溜池に続く4つの谷と、神田川の支流にあたる荒木町のスリバチ地形が見えてきます。都心の絶景コースです。 |
暗渠に残る橋跡。 |
於岩稲荷から四谷田宮神社。マレーシアからの院生には、東海大の能津准教授が説明していましたが、ここの英訳は難しそう。 |
「君の名は。」の聖地、須賀神社。マレーシアでも公開されたそうです。 |
真英寺からの谷戸。 |
台地には寺社、低地には民家が並んでいました。(明治始めの東京1/5000測量原図) |
甲州街道を渡り、神田川水系の荒木町へ。ここは松平摂津守上屋敷跡で、津の守弁財天の "策(むち)の池" は、ダム湖(庭園の池)の名残り。今年初の桜を見ることができました。 |
谷底にあるのが良く分かる。 |
ダムの堰堤から。かつての "策の池" は、南北130m、東西20~40mの大きな池でした。堤の標高は29.7m、谷底は21.4m、8mの高低差があります。 |
地面が見える稀有な場所。期間限定でしょう。 |
最後は、甲州街道に戻り懇親会。この日の朝日新聞には長谷川直子准教授が大きく掲載されています。マレーシアからのお2人の専門は建築。皆川会長と建築議論で盛り上がっていました。マレーシアにスリバチ学会が生まれるのは間違いなさそうです。 |
(おまけ) |
6.9km (解散後の半蔵門駅までを含む) |
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東京野良スリバチ学会の街歩きに参加しました。毎回、リーダーが代わる野良スリ、今回の隊長はMさん。まさかの国文出身。ということで "文豪ロマン巡り" が始まります。 総勢60名強、先ずは神田川から関口台へ。現在の関口2丁目辺り、昭和41年までは①関口台町(せきぐちだいまち)でした。 |
「田園の憂鬱」の佐藤春夫旧居跡。レプリカですが子孫が現住。旧居は出身地の新宮へ移築。 |
今宮神社の前には水窪川が流れていました。文京区音羽は1丁目と2丁目ですが、かつては1丁目から9丁目まであり南から北へふられていました。現在でも各丁で神輿を持っています。②小日向への坂を上ると石川啄木の下宿跡地。 |
茗荷谷の丸ノ内線車庫を抜け庚申坂を上ると③小石川台。 |
石川啄木終焉の地から小石川植物園横の御殿坂を上り④白山御殿台。 |
蓮華寺坂を下り、⑤白山神社の丘を越え⑥本郷台。夏目漱石旧居跡~鴎外記念館・観潮楼。 |
明治村に移築されている森鴎外・夏目漱石住宅。鴎外が1年、漱石が3年住んでいました。(2018/7/9) |
動坂を下ると赤紙仁王尊。田端八幡宮の富士塚を上ると⑦上野台。童橋公園には室生犀星の庭石。 |
豪快な田端切り通し。芥川の「年末の一日」に記述されているとのこと。 |
もう、どうでもいい芥川龍之介旧居跡や、かかりつけ医院を経て、北区文化振興財団の田端文士村記念館で解散。 |
東京野良スリバチは、今回が第一期の最終回。旗振り役だったNさんの移住なども影響するのでしょうか。都内のスリバチ歩きが少なくなるのは、とても残念です。 |
10.2km |